じもラブ Vol.12 定林坊 副住職 望月亮徳さん
定林坊の副住職をはじめ、首都圏の一般企業のサラリーマン、フリーペーパーの記者、一般社団法人の広報部長など、いくつもの顔を持つ望月亮徳さん。穏やかな笑顔で西へ東へと飛び回り、日々精力的に活動しています。ご自身がアウトローと表現する生き方の裏で、確かな身延愛が育まれていました。
歴史ある寺の長男に生まれて
私は、戦国時代(1576年)に身延山久遠寺第15世の住職 日叙上人によって建てられた定林坊に、長男として生まれました。子どもの頃に両親から将来のことについて何か言われた記憶はないのですが、周囲から「亮徳くんは大きくなったらお坊さんになるのよね」と言われたり、そういう期待の目で見られていることを感じたりしていましたし、学校の授業で日蓮聖人の話が出てくれば友人たちからいじられるのが常でしたから、次第に自身の出自にコンプレックスを抱くようになり、お寺に対しても良いイメージを持てなくなっていきました。そんなわけで、今でこそ副住職を務めさせていただいておりますが、高校までは、お坊さんになるつもりはまったくなかったのですね。
転機になったのは、大学時代でした。親の勧める立正大学に進み都内の一等地にある大学寮に入ったところ、実はそこは日蓮宗のお寺の子弟が全国から集まる寮でして、バラ色の大学生活が始まるとの期待はもろくも崩れ、待っていたのは、朝5時に起床し、手早く掃除を済ませると6時から1時間程度のおつとめをするという、修行僧さながらの生活でした。
もちろん、最初は嫌で嫌で仕方がなかったし、親や先輩に対する反発もありました。けれど、17人の同期と出会い、互いに助け合い支え合いながら家族より濃い生活をするなかで、自分は身延のお寺に生まれたからこそ、こういうご縁ができたんだということに気づかされまして、それからは前向きに仏教界に入って活動していくことを肯定的に捉えられるようになっていきました。
苦しい時期を共に乗り越えた同期とは、今も交流がありますね。みんなこの世界に入っていて、いろいろと苦労もしている様子。会うたびに「みんな大人になったな」と思います。
仏縁に導かれて
大学卒業後は、八王子のお寺に勤務しました。「自分の力を試してみたい」そう思い、自力で就職先を探すことにしました。1件1件電話をかけ、交渉を試みましたが、なかなか雇っていただけるお寺はありませんでした。「この電話で最後にしよう」そう思ってかけた電話で拾っていただけたのが、八王子のご住職でした。後でわかったことですが、ご住職は父の大学寮の後輩だったそう。ともあれ受け入れていただけることになり、2年間修業させていただきました。
その後は、日蓮宗の本部に転職しました。ここは、全国の日蓮宗を管轄しているところです。私は海外部門に配属され、世界各国にある日蓮宗のお寺とのやり取りなどを担当しました。
日蓮宗の本部では比較的、自由に使える時間を作ることができ、自分の時間を利用して始めた活動が御朱印を中心としたSNSでの発信でした。
平日は日蓮宗の本部、土日は身延山と、東京と山梨を毎週行き来する生活。その中で、客観的に身延山を見つめ直すきっかけになり「身延山ってこんな魅力もあるんだ!」と気づき、もっと多くの人にこの魅力を伝えたいと思ったことが、今に続く活動の始まりです。
自力で歩んでいる思っていましたが、今振り返ってみると、結局仏様に導かれていたのかなと思います。
SNSでの発信を通して、得た気づきと広がった世界
御朱印の活動について詳しく話しますと、コロナ禍もあって来訪者が激減している時期でしたから、まずは実家である定林坊の参拝者を増やそうと思い、月替わりや期間限定のちょっと特別感のある御朱印を考案し、SNSで情報発信しておりました。また、情報を発信するだけでなく、身延を知ってもらうためのツアーを企画し実施する活動も始めました。
一方で、勉強のため、個人的に全国各地の神社仏閣を見て回るようにもなりました。そこでわかったのが、一つとしてお寺だけで成り立っている場所はなく、特に、栄えているところは必ず門前町があり、町の人たちと協力して、観光や地域の魅力を発信しているということでした。私自身も、一人でやっていては先は見えている、やはり、町の事業者や飲食店と肩を組んでやっていくことが、町のためにもなるし、身延山のためにもなるし、定林坊のためにもなると気づき、地域との関わりを意識するようになりました。
何足ものわらじを履いて、奔走する日々
現在は、月の半分は定林坊でお勤めをして、もう半分は東京の一般企業で働いています。一般企業で働こうと思ったのは、布教される立場にたって、もっと身近で一般の方の生活や気持ちについて理解を深めたいという想いからでした。それで、一度外の世界を見てみようと思い、就職活動をして今の職場に就職しました。
一方、身延で過ごす時間が増えたことで、地域との関わりも増えました。
「南山梨HuMaN」というフリーペーパーを発行している、南山梨HuMaN編集部で広報のお手伝いをしたり、一般社団法人SAZC南山梨の活動に携わらせていただいております。
「南山梨HuMaN」はもともと愛読していたのですが、あるとき、記者募集の記事が掲載されていたんですね。それですぐに電話をして、2年ほど前から手伝うようになり、企画や広告取り、グルメ記事などを担当しています。
一方、「一般社団法人SAZC南山梨」は、身延町、早川町、富士川町、市川三郷町、南部町という5町を中心に峡南地域を盛り上げていこうという団体で、この地域の事業者が中心となって活動しています。事務局長さんから発信部門を手伝ってくれないかというご相談をいただき、お受けすることにしました。
こうした活動を通して、役場をはじめ峡南地域のいろいろな方と出会う機会ができ、さまざまなつながりが生まれ、活動の幅も広がっています。例えば、最近では、野草研究家と下部ホテルとコラボレーションしてのデトックスツアーを企画し、実施しました。そして、そうしたなかで改めて思うのは、身延にはたくさんの魅力があるということ。今後はこうした活動も通して、今はまだ気づいていない身延の魅力を発掘し発信していきたいと考えています。
身延は素に戻れる場所
私にとって身延は、素でいられる場所。東京と行き来していて気づいたのですが、東京では誰もが武装しているんですよね。あらゆるものが混沌としていて、自分を見失いそうになる場所だなとも思う。だからでしょうか、身延へ帰ってくると心からホッとして、ああ、ここが自分の家なんだ、帰ってきたなと実感します。
この感覚は自分の生まれ育った場所だからなのかと思っていたら、不思議なことに、御朱印を求めて遠方から来られた方からも、同じようなお話を聞くことがあるんですね。最初は御朱印目当てだったけど、月替わりの御朱印を求めて通っているうちに、来ると癒されることに気づいたというお話も聞きます。良い意味で商業化されていない、飾り気がないまちだから、誰もが素の自分でいられるのかもしれません。そしてそれは、紛れもなく身延の良さであり魅力。地元にいると当たり前すぎて気づかないそんな魅力も、大切に伝えていけたらと思っています。
望月亮徳さんのおすすめ
御廟所
日蓮聖人が眠っておられる場所であり、実際に住まわれていた場所。久遠寺発祥の地でもあります。私もときおり訪ねるのですが、常に凛とした空気が満ちていて、この世の雑念から解き放たれる感覚が得られます。身延山のなかでも特別な聖なる場所だと思うので、ぜひ訪ねていただきたいですね。
玉川楼
門内商店街にある玉川楼さんのから揚げは、久遠寺のお坊さんのソウルフード。私も子供の頃からよく頂いてきましたが、外はカリッ、中はジューシーで肉汁たっぷり。噛んだ瞬間に広がる香りと味も癖になるおいしさです。全国から久遠寺に修行に来られたお坊さんや身延山高校の学生が、在学中に食べた味が忘れられなくて身延山に来るたび訪ねるという話をよく聞きますが、それも納得の特別なから揚げ。ぜひ召し上がってみてください。